2010年3月10日水曜日

余白

「余白」・・・空間・あき・間・・・・
 
絵画や広告デザインなどにおいては、何もかかれていない空白部分。
 
 
 
 

 
 
 
 
 
例えば、何も書かずに改行している この空白 部分。

 
 
  
 
 
私は会社のカタログなど、印刷物のデザインをよく行うのだが、文字や写真で埋め尽くすのは非常に簡単で、余白を十分に取ることは非常に勇気がいるし、難しい。
 
 
余白が綺麗に取れたカタログは美しい。
無印良品の広告が好きだ。憧れる。
なかなかああいう余白を取ることが出来ない・・。
 
 
 
植物デザインにおいて、「余白」というものを考えたとき、「空間」ということに置き換えることが出来る。洋蘭の鉢物の場合、空間を取らず花でゴージャスに埋めることが美しい。一方、盆栽を初めとする和的な価値の中では、「空間」をあけることで植物の周りにある空気を感じことができ、その空間を含め一つの作品として成り立っている。花で一面埋め尽くすことは非常に簡単だが、空間を開けることは非常に勇気がいるし、難しい。
 
 
自分自身、花の展示や、鉢物の寄せ植えを作っても、花で間(ま)を埋めてしまう。作成者としては、間を埋めることで、何か安心感が得られるのだ。
 
結局、植物の大半は、西洋的な価値観(ゴージャス・ボリューム)で価格が決まっているので、自分自身そちらに流されているのかも知れない。
 
 
自分が好きなものとは、
        自分らしさとは、
            社会の価値観に流されること無く、改めて見直してみたい。
 
 
 
 
さて、等伯の作品の中で、余白を意識して観察したとき、一点気づいたことがある。
植物が描かれている一つの屏風絵の中でも、同じ植物の葉でも、沢山盛り込まれている部分の描き方と、余白の中に書かれている葉では、描き方の丁寧さ? が全く違っていた。
 
沢山盛り込まれている部分では、色々な要素の重なり合いが美しい。一方、余白部分に描かれた葉は、余白という空間の中で際立つ葉そのものと、周りの空気との重なりが美しい。よって、余白部分の方が丁寧に描かれているのではないか?(推測ですが・・。)
 
 
鉢花の世界に置き換えて場合、空間を取る商品を作るためには、西洋的価値観で商品を作るよりも、花一輪・葉一枚にかける丁寧さが求められるのであろう。
 
 
そういった商品が、自分らしさと言えるように努力・努力である。
 

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